2012年に文部科学省が行った調査では、通常学級に通う児童生徒のうち「発達障害の可能性がある」子どもは約6.5%、クラスにおよそ2~3人はいるという報告がされています。
近年はこういった認識が広まり、早期発見・早期療育が叫ばれてきていますが、これまでも、こうした周囲には分かりにくい「生きづらさ」を抱えた人は一定数いたはずです。
大人になるまでの段階で適切な支援を受けられず、社会生活でつまづきを繰り返すと、「自分は価値がない」「何をやってもダメなんだ」という思いから、うつ病や不安障害といった二次障害を引き起こしてしまいます。
実際に困窮者支援の現場でも、利用者が抱える様々な精神障害の根底に、実は発達障害があったという事例が少なくありません。
今回インタビューしたTさん(女性・27歳)も、自分の障害について知ったのは中学生になってから。苦しかった幼少期からこれまでについて、お話を聞きました。
Tさんは沖縄県で共働きの両親のもと、2人姉妹の長女として生まれました。
「小学校に入学すると周囲から浮いてしまい、すぐにいじめられるようになった」
落ち着きがなく、思ったことを言ってしまう。
机のなかはぐちゃぐちゃで、いつも忘れ物ばかり。
勉強にはついていけず、得意な国語と図工以外は0点。
そんなTさんに対して周りの子どもは、うわばきを隠したり、階段から突き落としたり、「ブス」「デブ」などひどい言葉をなげかける。教師もいじめを見て見ぬふりで、学習の遅れへのフォローさえしてはくれませんでした。
「学校に行きたくないけど、でも、親に心配かけたくない」
毎日深夜に帰宅する両親はこの事実を知らぬまま、数年を過ごしました。
「だれも自分の生きづらさを分かってくれない」
「自分を消したい」
そんな思いを抱えると同時に、周囲からの陰湿ないじめにあい、
「怖い、いつか殺される」
そんな恐怖も感じていました。
学校でのいじめから強い不安、孤立、そしてストレスを感じていたTさんは、
4年生の時に初めて手首を切りました。
その時の心境は「死ぬつもり」というよりも「親に気づいてほしかった」から。
水泳の授業で傷跡を見つけた教師から連絡が行き、ついに両親の知るところとなりました。
これをきっかけに、いじめられていたことを親にカミングアウトしました。
そして「中学は、自分を知る人が誰もいない学校に行きたい」と訴えました。
両親はこの思いを受け止め、中学入学と同時に一家で引越しすることになりました。
気持ちあらたに入学した中学では、Tさんの周りには人が増え、仲良くしてくれる友達が急速に増えました。一緒に行動したり、「カワイイね」と褒めてもらえたり、状況は一気に好転したかに見えました。
しかし、Tさんの心はすでに健康な状態からは程遠いところにありました。
「こんな私がカワイイはずがない、ウソだ」
「みんなで私をだまそうとしている」
「チヤホヤしておいて、後で一気に奈落に突き落とすつもりだ」
自分も人も信じられず、強い被害妄想を感じていたのです。
中1で初めて精神科を受診すると、「うつ病」と診断され、多量の薬を処方されました。
しかし薬を飲んでも良くならず、親の勧めで別の病院を受診。
そこで「統合失調感情障害(※)」という診断名とともに、ADHD(注意欠陥多動性障害)、ASD(自閉症スぺクラム障害)という「発達障害」を抱えていること、さらには軽度に「知的障害」があることが判明しました。
※統合失調症の症状と気分障害の症状の両方が同時に現れる精神障害。
その時やっと、「自分が人と違う理由」や「いじめられた原因」を理解できたそうです。
その後、摂食障害のため32Kgまで体重が減ってしまったことから2か月間入院をし、退院とともにフリースクールに転校しました。
通い始めたフリースクールの先生はTさんの特性を理解し、一人の人間として認めてくれました。
「人には言えないことでも先生には話せた」というくらい信頼を寄せることができました。
その一方で、娘の障害を知った両親はというと、関連する本を読みあさり
理解しようと努力してはくれましたが、Tさんの言動を見るにつけ、
「それは病気の症状だ」
「本に書いてあったとおり」
とすぐに障害と結び付けたがり、Tさんの気持ちに寄り添ってはくれませんでした。
最もTさんが嫌だったのが「育て方を間違えた」という言葉。
発達障害や知的障害は生まれつきだと分かっているのに、そうやって両親が罪悪感を持てば持つほど「やっぱり分かってもらえない」という思いを強くしたのでした。
順調にフリースクールに通えたため、高校進学のための登校日数を満たすことができたTさんは、中学を卒業し高校に進みました。
ところが、同じ中学出身の親友が不遇な死をとげてしまいます。
さらには、初恋の人が溺死するという悲惨な事件が立て続けに起こりました。
もともと、人と親しくなるとどこか心の片隅で「いつかこの関係も壊れてしまうのでは」という不安が付きまとっていましたが、この事件を機に
「自分が仲良くなった人はみんな死んじゃうんじゃないか」という妄想があたまをもたげるようになってしまいました。
結局、躁鬱病がひどくなり高校を中退。
仕事を始めてはみたものの、躁状態のときは売り上げがあがるけれど、鬱状態に入ると仕事に行く事ができない。
クビになっては、また就職して、また失敗する、の繰り返し。
履歴書の職歴欄が増えるとともに、気分障害は悪化する一方でした。
地元沖縄では人間関係のこじれから、とうとう居場所がなくなってしまい、上京したTさん。
風俗で働いたり、公園やネットカフェで過ごすうちに、SNSで知り合った見ず知らずの人の家に転がり込む「その日ぐらし」をするようになりました。
中には本当に優しい人もいましたが、性犯罪に巻き込まれたり、ストーカーにあったこともありました。
「怖くはなかったですか?」という問いに
「殺されても別にいいかなと思ってた」と答えながらも、
「誰かのおかげで生きている生活は、言いたいことも言えない、やりたいこともできない生活だった」と話してくれました。
Tさんは今、生活保護をうけながら生活に困窮する人を支援するための施設(都内の無料低額宿泊所)で暮らしています。
通院や服薬をつづけ、自分自身の生活を立て直す方法を模索しているところです。
まだまだ不安や強いストレスを感じると、パニックになり自傷行為をしてしまうこともありますが、Tさんには、大好きな絵や詩・作曲などの創作活動に没頭できる強みもあります。
「市役所の人に『腕の傷を見ると悲しいんだよ』と言われて、自分のせいで人が悲しむのは辛いと思った」
「少しずつでも自分でコントロールできるようになりたい」
自分が不安定になってしまう原因を見つけ、それを排除し、社会に適応できるようになりたいとTさんは考えています。
Tさんに、「過去に戻ってやり直せるとしたら?」という質問をしたところ、
「もっと早く発達障害や知的障害が見つかっていたら、今とは違っていたかも」
「なかよし学級(特別支援学級)に行けてたらいじめられたりもなかっただろうな」という答えが複雑そうな表情とともに返ってきました。
「いじめがなかったらリストカットもなかったかも・・・」
青年期まで自分の「生きづらさ」の原因に気づけず、ずっと二次障害に苦しんできたTさん。
Tさんのように、早期に適切な支援を受けられなかった影響から、今も社会にうまくなじめず、二次障害に苦しんでいる人は他にも多くいるはずです。
しかし、その人ごとの特性を理解し、適切な配慮やサポートを行うことで実生活での困り感は軽減することができます。
その人がその人らしくいることが認められて、「自分は価値のある人間だ」と感じられるために、周囲ができることは何かを社会全体で考え続けていくことが大切なのではないでしょうか。
文(聞き手):梅原仁美
取材日:2018.8.31
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