「生活保護」という言葉を聞いて、みなさんはどんなイメージがありますか?
近年の不正受給のニュースや生活保護バッシングなどから負のイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。
人様の納めた税金でお世話になる
生活保護は恥ずかしい
今回のインタビュー当事者であるTさんも、以前は
「生活保護受給者に対して、上から目線を持って見ていた」
といいます。
それゆえ、住まいを失って困った時、一度は生活保護を考えたものの、
「やっぱり生活保護に頼るのはイヤ」
自分の中の嫌悪感から、保護を申請することなく、実家・娘宅・友人宅を転々とする不安定な生活を選択しました。
しかし、現在では女性専用施設(茨城県内の無料低額宿泊所)での安定した生活を手にし、「気持ちが楽になった」と話します。
今回のインタビューに応じてくれたのも、
「困っている人は堂々と(保護を)受ければいい」
「こういう施設があることをもっと多くの人に知ってほしい」
という強い思いがあってお話をしてくれました。
現在の夫と再婚したとき、Tさんには元夫との間の連れ子が2人いました。
夫にとっては血のつながらない子どもたちでしたが、まるで本当の子どものようにかわいがってくれ、子どもたちも夫になついていました。
「下の娘は高校生になるまで一緒にお風呂に入るほど仲が良かった」
Tさんは専業主婦として夫を支え、夫も家族を思いやる、幸せな家庭生活が12年間続きました。
転機が訪れたのは、娘が高校を卒業し家を出てから。
すでに上の息子も独立していて、夫婦2人だけの生活になりました。
そのころ、建設関係に勤める夫はオリンピックに向けた国立競技場の解体工事の現場を担当しており、出入り業者との軋轢や工期の遅れなど大きなストレスを抱えていたのです。
以前はおだやかだった夫は、帰宅して酒を飲むと、段々とTさんに言葉の暴力をあびせるようになっていきました。
仕事で嫌なことがあった日は、日常生活の些細なことを取り上げて、理不尽な理由で責めつづける。
決して、身体的な暴力はふるいませんが、ネチネチといつも同じことを繰り返し、Tさんが無視すると余計に怒り出す。
自分のストレスや劣等感のはけ口として、妻に八つ当たりをする夫に、Tさんはいつもビクビクしていました。
言いたいことも言えず、我慢を続け、
「私が悪いんだ」「自分のせいだ」と自分を責めるようにまでなったと言います。
怒りがエスカレートすると、
「俺が働いて飯食わせてやってるんだ」
「お前なんか出ていけ!」
と追い詰められ、そのたびにTさんは家を出て九州の実家に戻りました。
モラハラ夫の典型ですが、「脅し」の後には「泣き落とし」がきて、
「悪かった、戻ってきてくれ、お前がいないとダメなんだ」と謝罪の電話をかけてきます。
そのたびに、夫の元に戻っていたTさんでしたが、ついには再婚の事まで持ち出され、
「子どもが連れ子だったから、俺は気を遣って苦労したんだ」
と言われたとき、
「これまで家族で笑顔で過ごしてきた幸せな時間は嘘だったのか」
と精神的に大きなショックを受けました。
そして、「もう限界だ」と家を出る決心をしたのでした。
住まいを失い、「生活保護」も頭をよぎりましたが、どうしても恥ずかしいという思いから、娘に助けを求めました。
娘宅から居酒屋のパートに通いお金をためて、自分でアパートを借りることはできたのですが、毎月ギリギリの生活で娘からお金を借りる状態。
そのうち持病の腰痛で働けなくなり、みるみるうちに家賃が3ヵ月分たまってしまいました。
「せっぱつまって、考えることはお金のことばかりでした」
「借りたお金も返してないし、それ以上娘に迷惑はかけられなかった」
管理会社から立ち退きを迫られたTさんは、身の回りのものをバックに詰めて、栃木県那珂川町にいる友人宅に身を寄せました。
友人宅で家事手伝いをしながら腰痛はなんとか持ち直したのですが、今度はその友人が他県へ転勤になってしまいます。
とうとう行く場所がなくなり、「生活保護を頼るしかない」と考えたTさん。
しかし、「現在地保護」を知らなかったため、住民票のある小山市に行って申請しないといけないと思い込んでいました。
生活保護を受けるのに、住民登録の有無は関係ありません。
今いる自治体で保護を申請できることを知らずに、時間とお金を費やして那珂川町から小山市まで移動したのでした。
その日は金曜日。福祉事務所の相談窓口で事情を説明した頃にはすでに夕方5時になろうという時でした。
「この週末だけ娘さんの所に泊めてもらえないか」
と聞かれ、2、3泊だけなら大丈夫だろうと安易に考えてしまったTさんは
「大丈夫です、月曜日にもう一度来ます」と言って福祉事務所を後にしました。
しかし、娘の家にいってみたところ、家には鍵がかかっており、車もない。
運の悪いことに娘は旅行に出かけてしまったのでした。
夜はまだ冷える3月。携帯はとめられ、手元にあるのは数千円だけ。
それから月曜日の朝までの3日間は耐え難いものでした。
人通りがある深夜までは駅周辺を歩き回ったり、構内の待合所で時間をつぶし、終電がなくなる頃、1時間200円のネットカフェに入り狭いスペースで仮眠を取りました。
食べ物を買うお金もなく、ネットカフェのスープで体を温めました。
「なんてみじめなんだろう」
「夫のもとでもう少し我慢していたら・・・」そんな思いも頭をもたげましたが、
「もう二度とあんな苦しい思いはしたくない」と自分を奮い立たせました。
そうしてやっとのことで迎えた月曜日の朝、福祉事務所に行くと、それからほどなくして女性専用施設の施設長と支援員がTさんを迎えにやってきました。
「どんな施設に行くのかものすごく不安だった」
「半分あきらめの気持ちだった」
テレビで取り上げられる施設は、汚くて、大人数部屋で、管理されて自由がない所。自分もそんな所に行くんだろうと想像していました。
しかし、迎えに行ったスタッフから施設の生活について丁寧に説明を受け、実際に施設についてみるとその違いに驚いたそうです。
「キレイな個室だし、みんな優しくて、想像してたのと全然違った」
施設に来た当初は
「何も心配しなくていいんだと思ってホッとした」
と精神的な安定を実感するばかりでしたが、しばらくすると葛藤が生まれたと言います。
「こんなに幸せでいいのだろうか」
「ちゃんと仕事をして自立したい」
今そう思えるのは「考える余裕」ができたからだとTさんは感じています。
人は生活に困窮すると、どんどん視野がせまくなっていく。
一人で悩んで相談できずにいると、今のことしか考えられず困窮から抜け出せなくなる。
「生活保護」やこういった「施設」があり、安定した基盤があってこそ、これから先を考えられるし、自分らしくいられる。
「生活保護=恥ずかしいことじゃないし、施設の生活=みじめな生活じゃない」
困っている人をたすけてくれる場所がちゃんとある。
だから、いま困っている人は一人で悩まないでほしい。
これが、このインタビューコラムを通して、Tさんがみなさんへ伝えたいメッセージです。
文(聞き手):梅原仁美
取材日:2018.5.25
[お問い合わせ]
NPO法人エスエスエス 茨城支部
0120-242-188