更新日:2017.09.16
当事者インタビュー:Nさん(男性・55歳)
辛いこと、やりきれないことがあったら、お酒の1杯でも飲みたくなる。
あなたにも、そんな経験がありませんか?
しかし、飲酒がエスカレートし、アルコール依存症になることで、生活困窮に陥る人は少なくありません。
「父親代わりで自分を世話してくれた15歳年上の兄が亡くなった」
2017年4月、その訃報を人づてに聞いたNさん。
この10年、アルコール依存症による脳の萎縮のために歩けない、眠れない、しゃべれない、どん底の状態から根気強くリハビリを続け、やっと自由に歩き、話せるようになった矢先の出来事でした。
「アル中の自分が葬式に顔を出したら迷惑」
そう思って遠くから兄の葬儀を見るしかなかったNさん。
依存症の自分に、「先生の言うことを聞いて、真面目に治せ」そう言ってくれた兄の死に、打ちひしがれた思いで帰る道すがら、スーパーに立ち寄り、 棚から1本のウイスキーを手にとりました。
その時Nさんの脳裏に浮かんだのは、少し前に会った兄の「じゃ、またな」という言葉と笑顔。それと同時に涙があふれてとまらなくなりました。
「酒を飲んでも、あんちゃんが帰ってくるわけじゃない」
「いまここで飲んでしまったら、頑張ってきた10年がすべて無駄になる」
そう思ってウイスキーを買わずに店を出ました。
「あの時飲んでいたら、今ここにはいない」
アルコール依存症は、飲み始めたら止まらない。死ぬまで飲んでしまう病気。
今回のインタビューは、生活に困窮した人の自立を支援する施設「下小田中ハイツ(川崎市内の無料低額宿泊所)」で暮らす、アルコール依存症のNさんのお話しです。
2006年の年末、当時45歳だったNさんは一人暮らしのアパートで、意識不明の状態で、兄に発見されました。
毎日ろくに食事もせず、とにかく酒ばかり飲んでいて黄疸もひどかったといいます。
緊急搬送された病院で、壊死した膵臓のほとんどを摘出する大きな手術を受けました。
その時の記憶は断片的にしか残っておらず、自室で「師走だな」と思って気を失ってから次の記憶は、病院のベッドの上で洗髪されている自分。その次に意識をとり戻したのは通称「がっちゃん部屋」いわゆる精神科病棟の隔離室でした。
画像検査の結果、脳に萎縮が認められ、医師からは
「歩行、睡眠、言語に障害が残るでしょう」と言われました。
まさかそんなこと、その時はそう思ったのですが、退院後しばらくすると医師の言葉どおり、歩けなくなったのを皮切りに、夜眠れず、言葉もでなくなってしまいました。
考えることはできても、発語ができず、自分でも何を言っているか分からない。
「人間やめたかった」当時をそう振り返ります。
Nさんは、6人兄姉の末っ子として、川崎で生まれました。
一家は生活保護を受け、父親は仕事もせず酒ばかり。
それでも兄姉は仲が良く、自分は甘やかされて育ったと言います。
中学に入ってからはグレはじめ、卒業後は先生のすすめで理容学校に進みます。
川崎で一番大きな床屋で働き始めたNさんが未成年で飲酒するようになったのは、周囲の環境が大きな要因でした。
仕事を終えて店を出ると、毎日のように床屋の常連客に飲みに行こうと誘われました。遊びたい盛りのNさんにとって、ネオン輝く夜の街は、魅力的で楽しいものでした。
ふわふわと酔う感覚がきもちよく、酒にのめりこむようになりました。
若干15歳にして大人の遊びを知ってしまったNさんは、まじめに忍耐づよく理容師としての道を続けることができませんでした。
その後、名古屋で別の仕事に就き、結婚し、子どもももうけました。
運よく船舶の免許を取得したことから、タンカーを桟橋に係留する綱取りの仕事を始めると、給料は上がり生活は順風満帆に思えました。
しかし、若さと勢いではじまった結婚生活も長くは続かず、5年弱で離婚。
「女ひとり、娘ひとり守れず、情けない気持ち」で一人川崎へ戻ってきました。
兄の用意してくれた川崎のアパートで一人暮らしをしながら、名古屋でとった大型免許をいかしてトラックの運転手をはじめます。
「自分は何をやっても中途半端」
せっかく理容師の免許をとったのに我慢ができなかった。
名古屋での家族との生活もうまくいかなかった。
そんな思いから、毎晩仕事を終えるとコンビニに寄って大量の酒を買い込み、気を失うまで飲む、そんな生活が続き、酒の量は増える一方でした。
ある時、首都高を運転中に、突然視界が真っ白に。
慌てて路肩に停車し、ことなきを得ましたが、原因は糖尿病からくる目の異常。
それでも自分の体を顧みず酒を飲み続けた結果が、意識不明で兄に発見された2006年の年末の出来事でした。
仕事もできなくなって、病気と言われても、飲みつづけてしまう。
「危篤までいって、やっと思い知った」
アルコール依存症はそれほど怖い病気なのです。
Nさんは、仕事を辞めて以来、生活保護を受給していましたが、意識不明の後、脳の萎縮が見つかったことと、料理中にやけどをしたことを危惧した担当ケースワーカーの提案で、アパートを引き払い更生施設へ移ることに。
更生施設は、身体上・精神上の理由により養護・生活指導が必要な人が入所する生活保護法の施設です。
しかし、更生施設がどうしても合わないと思ったNさんは、コンビニでわざと缶コーヒーを万引きし、強制退所。
そして次にケースワーカーがさがしてくれた施設がSSSの幸荘でした。
現在Nさんは、SSSの別の施設、下小田中ハイツにいます。
利用者の住環境を改善するために、相部屋だった幸荘を閉鎖し、今年4月に全室個室の下小田中ハイツを開設しました。
これに伴い、Nさんも施設を移動。
現在の施設は、ほぼ毎日通っているアルコールケアセンターのごく近くにあります。
初めは、団体生活にとまどったNさんでしたが、ケアセンターに通うNさんを施設のみんなが見守り、「いってらっしゃい」「おかえり」と励ましてくれたといいます。
後遺症を一つ一つクリアしてきたけど、途中で何度も嫌になって電車に飛び込みたくなった。 でも、アルコール依存症は治らなくても回復できる病気。
治療を続けてきた10年の間に、知り合った20人が飲酒により亡くなりました。
「酒で人が死ぬなんておもわなかった」
10年前に本当なら自分も死んでいた。
だから、もう二度と「酒に逃げる」ってことだけはしたくない。
この年になってやっとわかった。
「人に迷惑をかけず、穏やかに暮らしていくことがみんなへの恩返しになる」
「飲んでいるときは、まともにできることもできなかった」Nさんは今そう思っています。
ストレスや不安をかき消そうと飲酒をする。
もしかしたら、その選択がアルコール依存症の入り口かもしれません。
それはむしろ、事態の解決からあなたを遠ざけてしまうのではないでしょうか?
文(聞き手):梅原仁美
神奈川県川崎市中原区下小田中6-29-5
[お問い合わせ]
NPO法人エスエスエス 神奈川支部
044-221-6403