敷金、礼金、仲介手数料
アパートをかりるにはまとまったお金がかかります。
これらの初期費用が出せないから、社員寮がある仕事を選ばざるを得ない。
そこにも生活困窮に至るリスクがあることをご存知でしょうか?
「住む場所がないから」と社員寮つきの仕事を渡りあるいた結果、
家族との別離をきっかけにネットカフェやサウナ・カプセルホテルから、
ついには公園のベンチで夜を過ごすまでに困窮してしまった
Yさんのインタビューです。
高校卒業と同時に、それまでアルバイトしていたラーメン店に就職。
調理見習いとして4年間働いたものの、思いがけなくお店が倒産。
飲食業がやりたかったというYさんは、その後もラーメン店にいくつか就職したのち、
寮つきの日本料理店での働き口を見つけます。
結婚し、27歳で娘が誕生。
家族3人水いらずの生活をはじめた矢先、またしてもお店がつぶれてしまいます。
妻と幼い子どもを連れ、いきなり寮を出されることになりました。
「妻と娘がいたから、しかたなく寮つきの工場へいった」
塩ビ工場の寮に家族3人でうつり住んだものの、仕事は重労働。
薬品から原料をつくる作業は2交代制で、1週間ごとにくる夜勤は夜どおし機械をまわし続けます。
土曜日は会社のつきあいで野球に強制参加しなければならず、いかないと欠勤扱いに。
「精神的にも肉体的にもめちゃくちゃきつかった」という生活で、家族との時間も十分にとれませんでした。
その後、お金をためて一度は自分でアパートを借り、知人の印刷工場へ転職しますが、
人間関係が原因で退職。
30歳をすぎると正社員の口は見つからず、派遣契約で印刷会社へ。
当然給料は下がり貯金をくいつぶす毎日。
4勤2休で、半分は夜勤。
「若い正社員にえらそうにされる上、休みがバラバラで、子どもとどこへも行けなかった」
派遣の給料でどんなにがんばってもお金はのこらず、アパートの家賃を支払うことも
きびしくなってきます。
「なんとか生活してかなきゃ」と、Yさんはまた寮のある新聞販売店で専業の職に
就きます。 朝は2時から朝刊の配達、仮眠をとったあと飛び込み営業にまわり、夕刊の配達を終えた5時ごろからまた営業。
雨の日も雪の日も350軒へ新聞を配り、毎日が寝不足。
営業は歩合制で、契約をとれば給料はあがるが、月20件のノルマが果たせないと逆に
給料を減らされる。
上司からはハッパをかけられ、訪問先からは門前払いされるどころか罵声もあびた。
「毎日頭をさげてばかりで、またどうせだめだろうと気力がなくなった」
早朝から夜までの過酷な労働時間。
いつもノルマに追われる精神的ストレス。
おいつめられていたYさんと同じく、妻も安定しない収入に金銭的不安を抱えていました。 互いにピリピリし、ささいなことでもケンカをしては、妻は子どもを連れてたびたび実家にもどっていたといいます。
疲れ切っていたYさんは、妻からの「別れようか」の一言に「うん」と答え
翌日配達から戻った時には、妻と子どもはいなくなっていました。
あのとき、もっと歩みよれたら、もうちょっと辛抱してくれと言えたら・・・
「そうすれば今のこの生活とは違った生活になっていたかも」
あの時の不安定な生活が、今の困窮した生活のスタートだったそうです。
家族を失い、やけっぱちになったYさんは新聞販売店を辞め、寮をでます。
最初は寮つきの派遣の職を転々。
正社員の仕事は見つからず、そのうちサウナやカプセルに寝泊まりしながら日払いに行く生活に。
ついには仕事もなくなり公園のベンチで横になり、
「なんで俺こんなとこで寝てんのかな」とみじめな気持ちだったと言います。
仕事も手持金もなくなり途方にくれたYさんは、「宿泊所」をネットで検索。
「前に知り合いにNPOがやってる宿泊所があるってきいてたから」
福祉事務所に相談に行き、その日のうちに生活に困窮した人の自立を支援する施設
「鹿浜荘(足立区内の無料低額宿泊所)」に入所しました。
ゆくゆくは、仕事をみつけてアパートをかりたいと話すYさんですが、
現在左目が一時的に見えなくなる症状があり、まずは病気を治すことを目標に
しています。
派遣だったら寮つきの働き口もいくつかあるものの
「寮に入っても、仕事ができなくなったらまた出なくちゃならない」
寮つきの仕事は、始めるのは簡単。
でもそれでは不安定な生活をくりかえすことになりかねません。
「長くつづけられる仕事について、自分でアパートをかりることが目標」
Yさんのこの言葉は、不安定居住から脱したい人たちにとって、一つのヒントになるのではないでしょうか。
文(聞き手):梅原仁美
東京都足立区鹿浜2-15-9
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NPO法人エスエスエス 東京支部
03-3834-6850